聖闇の彼方へ 箕輪千絵子の件について:相馬俊樹 評

[ 2016年11月21日 ]

聖闇の彼方へ 箕輪千絵子の件について

 件という妖怪は、人の顔をした牛、すなわち人面獣である。これは、動物の顔に人身といった獣面人にくらべ、動物性がより強く際立った印象を与えるだろう。人面獣は四足歩行に手の使用が封じられていることも加わり、人間的な二足歩行と手作業が可能な獣面人よりも明らかに人間性と文化度の欠落を感じさせるわけである。
 獣面人がいわば自然(動物)の人間化であるとすれば、人面獣の方は人間の自然(動物)化といってよいかもしれない。前者はあくまでも基体(主体)となるのは人の身体であって、それが獣の力を一部借り受けとり込んで通常の人間的状態を超えようとするのに対し、後者はあたかも人の存在が人ならざるものに包囲され侵されのみ込まれていくかのごとくである。
 つまり、人面獣は人間性の失われるぎりぎりのところまで精神的下降を続け、野性の暗黒へと限りなく接近していくのである。たしかにそこは人にとって忌むべき獣性の巣食うカオティックな危険域であろうが、見方を変えれば、日常をはるかに凌駕する、戦慄的なまでの聖性に満たされた領域でもあろう。
 その深き聖闇の底に降り立つがゆえに、件という怪物は必ず的中するといわれる予言をぎりぎりの線で保った人の言葉でつかみ取ることができるのではなかろうか。

 人間性の解体される野性の深淵はむやみに触れることを拒む畏怖すべき狂域であるが、日常の経験を超えて精神の再編を求める者を常に惹きつける抗いがたい魅惑をもつ。

 銅版画家・箕輪千絵子の描く件は、人であることを忘れつつあるという慄きからであろうか、ときに怯えを隠し切れず、表情を曇らせるようにも見える。だが、大抵の場合、怪物はいたって穏やかな態であり、人を超えた領域を遠く静かに見つめているかのようである。怪物は、人間性を喪失し、自然の聖闇に浸されていく至福に身を任せようとしているかに思われる。
 かつて、箕輪と言葉を交わした折り、彼女は長い年月を経て人の手で制度化された壮麗な寺社よりも、より古き時の闇を宿した荒々しい土着の聖所を好むと話した。箕輪は制作においても、常に、畏怖しつつ引き込まれる彼方の聖闇に目を向けてきた。自らの心的解体の危機を覚悟の上で、なおも深淵へと精神の下降を続ける若き芸術家をわれわれは今後も応援していきたい。

 相馬俊樹(そうま としき / 美術評論家)

Back to top