小倉忠夫: 斎藤真一の世界 ―郷 愁―

[ 2012年12月22日 ]

斎藤真一は、第二次世界大戦後のいわゆる現代美術の渦中にありながら、それらのいずれとも異なるただ一筋の道を、自分の足で踏みしめて拓きながら歩み通した独特の画人であった。

その一筋の道とは、あらゆる角度からの意味合いをふくめての”郷愁”の道であったといえるのはないだろうか。手許の辞典で引いてみると、郷愁とは”他郷にある人が故郷をなつかしみ思うこと。ノスタルジア。”と書いてある。まず故郷といえば、生まれ育った土地のことだが、斎藤の故郷は岡山県の味野町(現在の倉敷市児島)で、県の先輩画家には竹久夢二、国吉康雄らがいる。

斎藤の母親は大の夢二ファンであったが、母からの感化を別としても、夢二と真一とはずい分共通点をもっている。放浪性、芝居好き、北国への志向、庶民性、土俗とハイカラの共存、郷愁と人生の悲哀の画家であることなどだが、夢二は詩人・文筆家、真一も『瞽女=盲目の旅芸人』で日本エッセイストクラブ賞を受賞した名文家である。また夫々に大正ロマンと昭和ロマンを代表する浪漫派画家。そして国吉といえば、斎藤が私費留学生として初めてフランスに渡った際、たずさえた本は『国吉康雄画集』ただ一冊のみであったという。

1960年代前半の真一作品には、その明らかな影響が見てとれる。これら三人の近代画家に共通するのはノスタルジア、弱い立場の庶民の側、反体制の側にあり、人間性を深くとらえた人生派の画家であることだろう。

また、克明な写実でものの実在を追求し、宗教的な神秘感に達した岸田劉生は、若い頃から斎藤を惹きつけていたが、劉生の父吟香も岡山県の出身である。しかし、郷愁をたんに生まれ故郷への思慕に限定してはなるまい。たとえば国吉にとっては、美術の大切さに開眼させ、芸術家として育んでくれたアメリカの方が、現実の故郷岡山よりも重要であり、太平洋戦争下に敵国人として、ニューヨークで画家生活を送った彼は、肉体の祖国と芸術の祖国との狭間に悩む。そして、この”引き裂かれた郷愁”こそが、彼の絵画を比類のない精神的深味とヒューマニズムへの郷愁の表現に高めたのである。

斎藤真一の画家としての出発は、学徒出陣で海軍に入り、敗戦で東京美術学校へ復学、卒業してからである。彼の画業が一躍注目されたのは、ヨーロッパ留学ののち、東北で盲目の女旅芸人・瞽女に惹かれ、その連作に打ちこむようになってからだ。パリで親交のあった藤田嗣治が、日本へ帰ったら秋田や東北がよいから描くようにと勧めてくれていた。まず津軽へ一人旅にでた斎藤の心の襞に津軽三味線の音色が焼きついてしまい、その源であった越後瞽女へと導かれたのは、まさに運命的な出会いであった。

津軽三味線の旋律については「血の煮えたぎるような、腹にしみ入る音色の中に、私はその時はじめて、日本芸能のすべての源をのぞき見る思い」がしたといい、またこのときの体験を、「それはヨーロッパ文明をさまざまとみていたときの不思議な幻覚とは、全く違った、私の幼い時代の再会であり、母の膚に顔をくっつけている実感でもあった」といっている。このように郷愁の画家はたんに我が故郷のみでなく、日本人の原体験にまで自分の過去をかさね合わせ、また日本芸能の源にまでさかのぼって思慕の念に打ち震えるのである。

谷川徹三は「ルオーの画が、娼婦や道化を描いても、その本質において宗教画であるように、斎藤真一の瞽女画は、その本質において宗教画なのである。それを〈津軽じょんから〉の展覧で、私ははっきり感じた」と評価している。一般的に見て、近世以降は聖なるものは俗化への傾向をたどり、宗教は衰退したと云わざるをえない状況である。そして現代にあっては、現代人の宗教心、信仰心が美術に投影される傾向がありはしないかと思う。特定の宗教や宗派に奉仕する絵画ではなく、人類の普遍的にして根源的な聖性への憧れ、聖なるものへの郷愁の美的表現のことであり、斎藤真一はまさしくその一例である。

また彼の色彩への開眼が、盲目の瞽女によってもたらされた事実は興味ぶかい。幼年にして視力を失った彼女たちの鮮やかな記憶の色彩は、沈みゆく真赤な太陽であり、ホオズキの赤、芍薬の赤、そして大空の青だという。青は海の色でもあり、海は人類の生物的発生の母胎であった。生きものを育むのは太陽であり、また血液である。斎藤絵画の最も異色の魅惑度にみちた赤と青は、魂の色そのものにまで純化されている。生命力の根源はエロス。とすれば斎藤真一はつきつめれば”エロスへの郷愁の画家”ともいえようか。

『斎藤真一秀作展』(1997年)パンフレットより
(おぐら ただお/美術評論家)

 

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