山田純嗣 × 小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって> プロローグ
[ 2012年11月5日 ]

【 山田純嗣 × 小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって> 】
美術家・山田純嗣がここ数年取り組んでいるシリーズ「絵画をめぐって」。
内外の古典名作をモチーフにしたこのシリーズの作品を私自身がまずは楽しみたいと思い、近現代絵画史専門であり、最初の「絵画をめぐって」シリーズの個展でテキストを執筆された小金沢智さんとならば必然的に面白い問答が展開されるだろうとお声掛けしたのが発端です。
書籍掲載だと手に取らなければならないし、ギャラリートークでは日時限定ゆえどうしても人数が限られてしまいます。
より多くの方に時間を気にせずゆっくり見てもらえるよう、WEB公開とさせて頂きました。
古今東西内外美術通で、それより何より美術大好きなお二人の往復書簡(Q:美術館学芸員・小金沢智 × A:美術家・山田純嗣)です。同様の美術ファンにとっても必ずや楽しめる内容となる事でしょう。話の方向や投稿時期は二人の自由きままにお任せし、不定期で数回ずつアップされる予定です。
どんな展開で往復書簡が広がっていくのでしょうか・・・。
不忍画廊/SHINOBAZU GALLERY 荒井裕史
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」 目次
[ 2012年11月5日 ]
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」001
[ 2012年11月5日 ]
山田純嗣 様
お久しぶりです、小金沢です。お元気でいらっしゃいますか?
先日不忍画廊ディレクターの荒井裕史さんから、今回の山田さんの個展「絵画をめぐって 死んでいるのか、生きているのか」に合わせ、メールによる往復書簡のご提案がありました。山田さんの作品について対話を重ねていき、その内容を逐次ウェブにアップしていく。約ひと月の会期でどれだけの言葉の往復ができるかわかりませんが、山田さんとはかねてからお話ししてみたいと思っていましたので、このような機会をいただけたことをとても嬉しく思います。
というのは、僕は山田さんの作品を、2008年の個展「DEEP FOREST-既視感の森-」(日本橋髙島屋美術画廊X)で初めて拝見したのち、その後2009年の個展「絵画をめぐって-The Pure Land-」(中京大学C・スクエア)、「山田純嗣 展」(不忍画廊)、2011年の「山田純嗣 展 絵画をめぐって -À Mon Seul Désir-」(日本橋髙島屋美術画廊X)など、機会のあるたびに拝見しているのですが、いまだ山田さんと直接お会いする機会を得られていないのですね。昨年の日本橋髙島屋美術画廊Xの個展ではリーフレットにテキストを書かせていただきましたが、お会いできずじまいでした。お互いツイッターでフォローし合っていて、テキストの依頼もツイッターのDMを通してだったように記憶しています。
さて、そのときのことですが、実は僕はとても驚きました。山田さんが依頼して下さったのは、中京大学C・スクエアでの個展のレビュー( http://www.kalons.net/index.php?option=com_content&view=article&id=467&catid=1&lang=ja )をカロンズネットに書いたのを読んでくださってだと思いますが、あのレビューを僕は今でも、うまく書くことができなかったという苦い経験とともに思い出すからです。奇しくもその個展が、その後継続されることになる〈絵画をめぐって〉と題された初めての個展であったわけですが、とにかく僕は山田さんの作品について書くことの難しさをそのとき強く感じました。今でも読み返すと、どう書いていいかわからない、という戸惑いがそこかしこから漂ってくるようです。
もっとも、今では、その逡巡もあながち見当違いなものではなかったのではないか、と感じています。なぜなら、その逡巡も含められたある種の〈わからなさ〉こそ、山田さんの作品の非常に大事な要素なのではないか、と思うからです。ここで僕が言う〈わからなさ〉について、思いつく理由を2点挙げておきたいと思います。
1点目は、山田さんの作品が石膏や樹脂などによって立体を作ることからはじまり、それらを写真に撮り、現像した写真をもとにエッチングをほどこす、という複雑な工程を経て作られているということ。単純化すれば立体から平面へと言い換えることができますが、その立体によるインスタレーションも展示されることにより、鑑賞者の視線は立体と平面を行き来することになります。そして、僕が戸惑い、混乱さえするのはこのときです。立体と平面との、イメージとスケールにおける同一性と差異性。そのズレによって、次第に僕はどちらも存在が不確かであるように見えてきて、引き裂かれているような思いを感じて立ち尽くしてしまいます。作品は確かにどちらもここにあるけれども、「本当にここに存在しているのだろうか?」とすら思えてきてしまう。
2点目は、山田さんの平面作品が版画であって複数枚存在しえる、ということで、これが前述の戸惑いと混乱に拍車をかけます。1点目は、立体と平面とのズレによる存在の不確かさでしたが、2点目は対照的に、同じものが複数点存在しえる、ということの不可解さです。とはいえ、これは山田さんの作品にかぎったことではありません。版画作品であれば、あるいはこの大量生産大量消費時代の現代であれば、美術にかぎらず同じものが複数点存在することなどまったく不思議なことではないからです。にもかかわらず、それが気になってしまう。そして、そもそも同じものが複数点存在するということに恐怖を感じてしまう。これは、<絵画をめぐって>のシリーズにおいて山田さんがモチーフにしている作品群が、本来的にはこの世に1点しか存在しないということにも起因しているのかもしれません。
相変わらず上手に説明ができず苦笑いするばかりですが、今回の個展の際して気になっている点について、最後に一つだけ。タイトルに、「死んでいるのか、生きているのか」とあります。「死んでいる」と進行形であるのが気になるところですが、僕はこれを、「死んで」いても、「生きて」いても、どちらにしても存在している、という風に読みました。それは言うならば、まるで幽霊のような。僕は山田さんの作品に(絵画の)幽霊的な要素を見ていて、それが戸惑いや混乱や怖れを感じさせるのかもしれません。
とりとめがない、予想どおりうまく言葉にできない第一信になってしまいました。見当違いなことを申し上げているような気がしますが、5日から始まる山田さんの個展を拝見して、改めて考えてみたいと思います。それでは、これからしばらくのお付き合い、よろしくお願いします。
小金沢智
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」002
[ 2012年11月6日 ]
小金沢智 様
返信が遅くなりました。不忍画廊での僕の個展に合わせた往復書簡の企画についてご快諾いただきましてありがとうございました。
僕自身このような企画は初めてで、どのように進めたらいいか分からないのですが、 話がいろんな方向にふらふらしたらそれはそれで充実するのではないかと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
未だにお会いすることができずにいますが、SNSのおかげで、 お互いどんな生活をしているか僅かながらもその一端を知っているという不思議な状態ですね。 文字という記号を通してその向こう側にいる人を想像するというような状態とでもいいましょうか。さて、そのことでも思い出すのですが、前回いただいたメールに<わからなさ>の理由の一つとして、僕の平面作品が版画であって複数存在し得ることを挙げられていたと思います。 この疑問を読んで、なるほどなと思いました。 僕自身は普段、複数つくり得ることについては結果であってあまり意識していないのですが、 作品制作においては、手元の作品に触れながら、その物質ではなくその向こう側にある世界の方に触れているのだと思っています。 それは、まさに複数存在し得るこの文字のような記号を通してその向こう側にいる人を想像することと近いと思います。つまり作品が複数存在しようと、単一であろうと、物質自体ではなくその向こう側の世界に触れようとしているので、 目の前のものは記号、イコンのようなものとも言えるのですが、でも目の前の僕の作品は確かに簡単ではない質感のものなので、それが向こう側の世界にすんなりとは行かせない居心地の悪さになるのかもしれません。
そもそも記号というのはトイレの男女のマークでも、地図記号でもどんな物でもシンプルにできている/シンプルさを目指しているもので、そう考えると僕の作品は記号というにはあまりにも物質的に複雑で、記号にはなり得ないのかもしれません。先ほど文字も記号と書きましたが、単語としての言葉はいかにも記号的ですが、 それを記号的に捉えてしまうと誤った理解になってしまうのではないかと思うのです。どういうことかというと、言葉でシンプルな言葉ほど実はわからないということです。
たとえば「愛」だとか「死」だとか。これらはこれがそれだと指で指し示すことができないものですし、これらについて「わかった」と言って得意げに語る人はなんだか信用ができないものです。いつまでたってもわかったと言い切れないものではないかと思うのです。つまり、シンプルな記号のようなものにもわかったとは言い切れない、記号的には理解ができないものが存在していると思うのです。「愛」だとか「死」だとかを知るには、外から眺めるのではなく、その過程の中に身を投じてしかそれに近づくことができないのではないかと思うのです。 話が作品のことからだいぶ離れてしまいましたが、僕は2009年のC・スクエアでの個展のステートメントで「愛」と言う言葉を使ったり、今回の個展でも「死」という言葉を使っているので 、あながちこういったことと遠いことではないと思っています。
そして、僕の作品において小金沢さんのもう一つの<わからなさ>、複雑な工程を経て作られているということについてですが、先ほどの「その過程の中に身を投じてしかそれに近づくことができないのではないか」という仮説が元になっています。いや、なっていますというか、近づこうとした結果工程が複雑化したという方が近いです。制作の行為の中には、記号化された言語ではなく、本来の意味とは離れているかもしれないけれど直接世界に触れることができる言語があるのです。一つの例として、僕が中学3年の夏、初めてデッサンを習いに予備校に通い始めた頃、こういう経験がありました。そこで講師からデッサンの指導でやたら「空間」という言葉が繰り返されていたのですが、最初は聞き慣れない言葉で何のことだかさっぱりわかりませんでした。でも沢山描いていくうちに、自分の中にも「空間」という言葉でしか表現できないものが理解できるようになり、共有できるようになりました。言葉というのは一つの仮の姿でしかなく、その先で言いたい事はもっと身体的なものなのでしょう。
最後に、今回のタイトル「死んでいるのか、生きているのか」について。小金沢さんのご指摘はなかなか鋭いと思いました。まさに死んで“いる”というところはポイントです。僕らは「ない」という事について、「ある」ということからしか言う事ができないのです。「わからない」「殺さない」「愛さない」…。これらはすべて「わかる」「殺す」「愛す」ということがあって初めて成り立つ言葉です。「死」という状態は「無」を表すのですが、ただの「無」ではなく、その前に「生」がなければ存在できず、そういう点では「ない」と同じものだと思います。つまり、小金沢さんの指摘のとおりどちらにしても存在しているのです。ただ、「生」は「死」によって終わりますが、「死」については無でありながらずっとあり続けるという点も興味深く、ずっとあり続けるというのは、生きている僕らにとっては<わからなさ>の極地なのではないかと思います。
最初からとりとめなく若干長くなってしまいました。今後ともよろしくお願いいたします。
山田 純嗣
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」003
[ 2012年11月12日 ]
山田純嗣 様
大変興味深いお返事をありがとうございました。
絵画をめぐる話のはずが、にわかに言葉をめぐる話にもなりそうで、とても嬉しく思います。
今日はレセプションですね。今日から出張のため伺うことができず、残念に思っています。またもお会いする機会を逸してしまいましたが、既に鬼籍に入った幾千の作家たちとはこのようにメールをすることも叶わないわけですから、贅沢は言えませんね。作品と言葉を通してその思考に触れることができることを、なによりの幸甚と思わなければなりません。
さて、6日(火)に展覧会を拝見しました。ボスの大作をはじめ、雪舟、ミレー、ゴヤ、バッラ、そして六道絵など、古今東西の絵画が山田さんの手と目を通して新たに立ち上がっているさまは、まさに圧巻でした。それらの「名画」とも呼ばれる作品群は、山田さんの言葉を借りるなら、むしろそれゆえに文字のような「記号」と化しているように思います。それらのオリジナルは、たとえば「教科書で見たことがある」というような言われ方をされ、既視感が見るものに「向こう側の世界に触れる」ことに対してのフィルターをかけているのではないでしょうか。「名画」という言葉や先入観は、ともすれば思考の単純化/停止を促す、恐ろしい強制力があるということです。けれども、山田さんは見るものの既視感すらも構造として作品に取り入れることで、「既視感がある名画の異化」を入口として、作品自体が「向こう側の世界」に見るものをにじり寄らせるところがあるのではないかと思います。
そこで言う「向こう側の世界」には、オリジナルの作品を描いた作家の思考と、山田さんのそれに対する理解や解釈とが、同時に切り分け難く存在している。またしても〈わからなさ〉について述べさせていただくならば、それを感じるのは山田さんの作品の制作過程が複雑であるがゆえに、「向こう側の世界」にすんなりいかせないからではありません。むしろ〈絵画をめぐって〉シリーズは、ともすれば記号的でもある「名画」の異化という構造によってすんなりと「向こう側の世界」へ行かせてくれる(と僕は思う)のだけれども、その「向こう側の世界」へ行ってみると作者が二人いる。そのことが、怖れや戸惑いのようなものを少なくとも僕の中に生じさせる原因なのではないかと思います。
話を抽象的な方向へ滑らせてしまいましたが、単純化せず、言葉にし難い感覚を丁寧に掬い取っていくということを、山田さんの作品を前にするとき、改めて大事にしなければいけないと思うのです。山田さんが古今東西の絵画をモチーフに作品を制作することで、不在の作家の思考に触れているように、山田さんの作品を見る側も、たとえばそれまで使ったことがない言葉を用いてみることで、馴染みの薄い言葉たちを次第に血肉化し、見方や考え方を鍛えていく。どうやら〈わからなさ〉は、そのような回りくどい道筋を辿ることでしか解消されない/先に進ませることができないようです。しかしそれを積極的に引き受けることで、新しい回路が開けていくのでしょう。
そもそも、山田さんが〈絵画をめぐって〉シリーズをはじめた発端、意図はどこにあったのでしょうか?
それを最後にお聞きして、第3信を終えたいと思います。
小金沢智
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」004
[ 2012年11月16日 ]
小金沢智 様
小金沢さんからの前回の返信に「既視感」という言葉がありましたが、僕の日本橋髙島屋美術画廊Xでの最初の個展のタイトルにも「既視感」という言葉を使った事があり、あ、と思いました。これは前回の最後の質問の〈絵画をめぐって〉シリーズを始めた発端とも関わりがあって、自作の図像に対する既視感を探った事が、過去の絵画をモチーフにする事に繋がっていったのです。今の作品は過去の作品の上に成り立っている。そう思ったとき、その事を無視できなくなったというか、作らないと気が済まなくなってしまったのです。それが、《(09-7) UNICORN IN CAPTIVITY》でした。この作品はそういった思いが強かったので、完成には1年かかってしまいました。
あと、小金沢さんの返信の中に〈「向こう側の世界」へ行ってみると作者が二人いる。〉と言う部分がありましたが、その想像は面白いと思いました。確かに「向こう側の世界」と考えるとそんな風に思えますね。ただ、僕が考える絵画を通して触れる世界というのは、こちら側とあちら側という2つに分かれたものとも違うのかもしれないと思ってもいます。先日展覧会のステートメントにも書いたのですが、「死んでいるのか、生きているのか」の部分にあたる事で、どちらも内包しているものが世界なのだと思うのです。
ちょっと話が抽象的な方向に行きそうなので、ここで今日あった事に話題を変えますね。
今日、大学時代の同級生で作家の佐藤克久さんから、先日彼が出品していた国立国際美術館の「リアル・ジャパネスク」展の図録をいただきました。僕はその展覧会も見に行って、彼のトークも聞いてきました。彼は近年絵画にめざめていて、抽象、具象を問わず発色のいい開放的な作品を作っています。
同年代で同じ大学で過ごしたので、彼の学生時代の状況もよく知っているのですが、それは同時に僕の状況とも共通しています。その図録にある中西博之さん(国立国際美術館)による佐藤氏の作家解説が、その状況を分かりやすく書いてくれているので、ちょっと長いですが引用します。
「日本の美術家のなかで1960年代後半から70年代前半生まれの世代の美術家は、先行世代や後続世代と比べて非集団的である。60年代前半世代の活躍を目の当たりにするとともに、欧米美術のイズムからアートへの変化にも直面したはずで、制作上の目標設定のむずかしさを感じつつ、自ら学び考えて道を切り開くしか、ほかに方法がなかった世代とも言える。73年生まれの佐藤克久は、まさにそうした世代の美術家であり、宿命としての美術状況と自分自身に向き合い制作を積み重ねてきた。佐藤は美術大学で油彩画を専攻するが、学生時代以来ずっと絵は描かず、国内外の様々な美術家の現代美術作品を独学で研究し、吸収したものに基づく作品を制作してきた。…」
学生当時、彼と同級生だった僕も、またほかの同級生もほとんど絵を描く学生はいない状況でした。でも逆にそれによって絵とは何だろうと考えるようになったのだと思います。ただ、彼と僕とでは制作のアプローチの方法や、できる作品の見た目も違うし、もちろん性格も違うし、あまり交友関係もかぶらないので、彼からはぜんぜん違うよと言われてしまうかもしれませんが…。
彼の場合は、絵の制作の中から絵について考えている。絵を描くプロセスによって絵について考えているのではないかと思うのです。絵の中から外の世界に触れている、開かれているような印象を受けます。
僕はまだ彼のようにペインティングを試みる事ができずにいます。「できず」と言ってはみたものの、それで悲観的になっているのかどうかは自分でも分かりません。そこについてはまた次回以降考えるとして、今回はここまでにしたいと思います。
山田純嗣
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」005
[ 2012年11月17日 ]
山田純嗣様
自作の図像に対する既視感を探ったことが過去の絵画をモチーフにすることに繋がったこと、そしてそれが、学生時代ほとんど絵を描く学生がいなかったという言わば世代の問題にも端を発しているということ、とても興味深い発言です。今年の2月に美術家の中村ケンゴさんが、銀座のMEGUMI OGITA GALLERYで、「20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から」というシンポジウムを企画しました。作家の視点から20世紀末の日本の美術を検証しようというもので、他のパネリストに眞島竜男さん、永瀬恭一さん、そして作家ではない立場から、美術編集者で評論家の楠見清さんがゲスト・コメンテーターとして参加されています。内容はウェブにアップされているのでご一読いただければと思いますが( http://jart-end20.jugem.jp/ )、僕がケンゴさんの発言で特に関心を抱いたのが、山田さんも今回おっしゃっているようなこと、つまり当時「絵を描く学生がいなかった」ということです。ケンゴさんは1969年生まれですので、1974年生まれの山田さんとは五歳違い。シンポジウムは主に東京のアートシーンを語ったものでしたが、活動する土地は違えども、山田さんも近い境遇があったのだろうと今回のお返事を受けて想像しました。長いのですが、このくらいしないと意味が通りにくいので、ウェブから引用しますね。1995年(平成7年)の箇所です。
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中村:95年というのは色んな意味で日本の文化の転換点とも言われています。美術史的に言えば、中ザワヒデキさんが80年代を読み直そうっていうことをやってらっしゃるんですけど、僕もそれに影響されたところがちょっとあって、それで中ザワさんが言うには、奈良さんのような絵がこの時点で初めて「アート」というお墨付きを得たと。奈良さんの作品がどうこうということではないんですが、そういう絵は80年代からイラスト方面ではたくさんあったんだけれども、小山(登美夫)さんなんかが、これはアートだって言った瞬間に、アートシーンに入ってくるっていう。それでちょっと言いたいことは、1995年以前、「ザ・ギンブラート」にしても、「新宿少年アート」にしても、眞島さんの天ぷらにしても、いろいろ紹介しましたが、とにかく美術やってるやつで絵なんて描いているやつなんていなかった。
眞島:描いていたけれど、全く見えなかったわけですね。
中村:そうです。そういう意味では、僕も永瀬さんも同じなんです。たとえば当時、たとえばクラブで遊んでるときなんかに、自分と同じようなクリエイター志望の子がたくさんいるんだけど、何になりたいかって聞いたら、だいたい写真家か、あとはCDジャケットをデザインする人とか言うんですね。当時写真ブームがあって。あとMacも一般的になっていた。つまり、絵描きなんていうのはクリエイターになりたい人たちの将来の目標としてはない時代なんです。…そういえば80年代の終わりくらいから、「オブジェ」という言葉が生まれたり、「インスタレーション」っていう言葉が出てきたりとか、あと絵画、彫刻って言わずに、平面、立体とか言わなかった?
眞島:今でもそうでしょう。あ、でも絵画っていう言葉は、あの頃より使われるようになりましたね。
中村:今って絵画ってふつうに言うけど、当時けっこうマイナーな感じだったよ。気取ってペインティングとか言ったりしてたけど(笑)。奈良さんの登場で、抽象表現主義的でない絵が出てきたっていうのは一部ある。それからコマーシャルギャラリーも増えてきて、絵画っていうものが商品になるということもあった。
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ここでケンゴさんの言う「とにかく美術やってるやつで絵なんて描いているやつなんていなかった」、そして眞島さんの「描いていたけれど、全く見えなかったわけですね」という発言は、山田さんの「絵を描く学生がいなかった」という発言と符合します。ここで語られている時代の空気感みたいなものは、僕のように実際にその時代その場にいなかった人間には必ずしもわかりやすいものではないのですが、そういう時代を経ての、今の山田さんの作品があるということを知る必要があると感じました。
前回書いた「作者が二人いる」というのは、送ったあとに「しまった」と思ったところもであって、というのは、作品における過去の絵画との関係を非常に単純化してしまっているところがあるからです。二人いるというよりも、複数いるとした方が、この意味では正確なのではないか。それはモチーフとなっている絵画の作者だけではなく、そのモチーフとなっている絵画の作者がその絵画を制作するにあたって参考にしたであろう絵画も含まれるかもしれない。そう考えていくときりがない話ではあるのですが、絵画はそもそもそうやって過去の絵画から学びながら新しく生成され続けている歴史があります。それは図像レベルの引用に留まらない。
山田さんは今回のステイトメントの一行目に、「最初の一行目を描き出す」と書いています。ステイトメントがなかなか書けない状態にあり、しかし、そう書いたことによって、書くこと(考えることの)の運動がそこで具体的に始まることになる。これは僕も感覚として非常によくわかります。文章を書くときにどうしても困ったときは、まずなんでもいいから書いてみる。白紙のままではなかなか思考は進んでくれません。それは絵画で言うならば、まずカンヴァスに一筆入れてみる、ということと近いのでしょうか。
そして、そういった「絵画」の「運動」のことを示す言葉のたとえとして、〈絵画をめぐって〉に「生きているのか、死んでいるのか」と付け加えたとあります。ここで面白いのは、ステイトメントには3つの運動について書かれているということです。まず、冒頭にあるような、作り手側の運動。そして、そうやってできた作品自体の孕む運動。最後に、それを見る、その作家も含む鑑賞者側の運動。それぞれ意味合いは異なりますが、ひとところに留まらずに動き続けるものとして山田さんは「絵画」を捉えている。そしてボスの《快楽の園》をはじめとして、モチーフとなった過去の絵画作品には、そのような絵画自体の運動が内在している。
こうして話を伺ってみて改めて伺いたいのは、最後に山田さん自身触れられていますけれども、それをペインティングでなくして行なっているということ。話が戻ってしまいますが、それは学生時代に「絵を描く学生はいない状況」を経験したからこその、現在の技法と考えてよいのでしょうか?
小金沢智
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」006
[ 2012年11月21日 ]
小金沢智 様
前回リンクを貼っていただいた、中村さんたちのシンポジウムの記録を拝読しましたが、興味深いものでした。世代や時代背景について知るというのは、作家や作品について理解を深めようと思うとき重要ですし、納得する部分も多いですね。ただあまり安易に納得して思考停止にしないようにしなければとも思うところです。作品は因果関係からはみ出したところがあってこそ生き生きしてくると思うのです。とは言ってもやはり周りの影響を受けつつ制作するので、自分についておそらく関係していると思う辺りの事を中心に今回は触れておきますね。
シンポジウムのメンバーの方たちとは世代的にほぼ同じですが、メンバーの方たちの方が数年年上ですので、僕が大学生になったときの上級生や院生の人たちといった雰囲気ですね。何となくシンポジウムの内容から、僕が大学1年の頃(1993年)、上級生に図書館に連れて行かれ「山田、こういうのがアートなんだよ!」と言われたときの記憶がよみがえってきました。確かそのときに見せられて印象的だったのが、洋書の雑誌『Flash Art』や、京都市立芸術大学の彫刻専攻の卒業制作の図録でした。そこにはデミアン・ハーストのキャビネットやガラスの部屋の作品、京芸の方はたぶん中原浩大さんやヤノベケンジさんが載っていたと思います。入学時点で油画専攻の先輩から絵ではないものを「これがアートだ!」と言われたわけです。そう言われてそれまで受験に向けてデッサンや油絵を描いてきた身としては、受験の絵は受験の絵と割り切ってはいましたが、あまりにそれまでやってきた事や大学の授業の内容とかけ離れていて困惑したものです。その頃の美大油絵専攻の受験の定番と言えば、石膏像の木炭デッサンと人物モデルの油彩でした。そして大学の授業も、当時の愛知芸大では裸婦を描いてばかりでした。世代的に僕はベビーブームの頃に生まれた最後の年代で、74年生まれ以降こどもは減っていっているのですが、つまり一番受験生が多い時代で、そんな事もあり受験は過酷でした。東京藝大の油画専攻でたぶん40倍前後だったと思います。60人の枠に対して受験生が2000人を軽く超えていましたから。美大受験の課題内容と倍率の高さを考えると、当時美大受験生がどういう状況だったか想像できると思います。そして大学に入って視界が開けたときに見えた世界とのギャップです。(なんだかやはり懸念したとおり、おっさんの思い出話みたいになってしまいますね…。)
とにかく、その当時絵画を中心に考えていきたいと思っていたけど、先行世代やイケてるとされる先輩が発表している作品の多くは大掛かりな発注作品のようなものが多く、また大学では相変わらず裸婦を描く。どちらにも居場所がない感じでした。そうやってモヤモヤしているうちに奈良美智さんのような具象絵画を描く作家が注目されるようになる。僕の大学の下の世代には加藤美佳や安藤正子らがいるんですが、奈良さんが注目されたおかげもあってか、彼女らのように描く事に対してとてもポジティヴな作家が出てきます。描く事にポジティヴになれれば、どんどん細密に描いていく事ができると思うのですが、それが今の具象絵画の雰囲気を作っているのではないかと思います。気づいたら僕の周りはすっかり絵画に対して抵抗感がなくなっていたという感じです。
僕がはじめて版画に取り組んだのが95年、まだ絵画に対して、特に具象絵画に対しては抵抗感が残っていた時期でした。そんな中でも絵画について考えていきたいと思っていたので、ペインティングではなく、版という手法を使うのは絵画について形式を整理しながら考えていくのにちょうど良かったのです。描く事や図像についてではなく、絵画そのものについて考えられないかと思っていました。別の視点から見れば、発注作品みたいなものの残り香の中で絵画について考えていたとも言えるでしょう。当時の僕はジグマー・ポルケやゲルハルト・リヒターが好きでした。彼らの作品の多くは描かれた図像にはあまり大きな比重はなく、主題の中心は絵画そのものなのだと感じました。僕が絵画の事についてモヤモヤしていたことを現代美術の世界の中で形にしてくれていると思い心強かったです。彼ら二人の作品は絵画でありながら「描く」ということはあまり前面に出てきません。リヒターの抽象絵画シリーズは明らかに描くストロークを見せてはいますが、それについてもメタ的なものなのだと思います。あと彼らは東ドイツと西ドイツを経験している事、特にリヒターについては、東ドイツの芸術アカデミーを卒業したあと、西ドイツでドクメンタに触れ西への移住を決意するという点でも、先ほどの日本における美大受験期の絵の訓練と、大学入学後に現代美術の洗礼を受けるという当時の経験とのシンパシーも感じるのです。
そして、前回の小金沢さんの「最初の一行目を書き出す」と僕がステイトメントに書いた事に対する部分についてなのですが、この事に関してもやはり僕の作品がペインティングではないことに関係していて、僕の場合何かを見てリアクションとして絵を描く事は苦ではないのですが、何もない白いカンヴァスを前にしてしまうと「まずカンヴァスに一筆入れてみる」とういうようにはならなくて、一筆入れるその前に写真というすでに白くないカンヴァスを用意します。そしてカンヴァスに筆を置くのではなく、最終的な支持体ではない版の方に描きます。さらにその写真を用意するために立体をつくるという…。でもその立体の前には理念としての絵画が存在しているというような感じです。そこまで用意周到にしてやっとカンヴァスに向かえるのです。
何もない状態から「まずカンヴァスに一筆入れてみる」ということと、すでにあるものから始める点では、李禹煥の《点より》《線より》の絵画のシリーズや石や鉄板による《関係項》のシリーズが今の僕の制作の原点のうちの一つではないかと思っています。やはり《点より》《線より》の描かれた時代も「絵画の死」が言われていたと思うのですが、李や中村一美や辰野登恵子らが、大きな画面で点や線やシンプルな形を描き出した。絵画が「まずカンヴァスに一筆入れてみる」ということから再開、復活したのだと思います。それ以前には李は石や鉄板やガラスが「出会う」ことから作品を始めていました。僕は写真に描写を重ねる作品を始めるきっかけとして、その「出会い」に倣い、モチーフとしてまず何かを置いてみる事から始めました。でも石や木材といったものがゴロンと存在している状態は何か違うと思ったんです。90年代後半のキーワードとして美術では「日常」ということが言われていたと思います。音楽でもMr.Childrenなどがくりかえし「等身大の…」なんて歌っていた時代です。そんなこともあって僕は白いテーブルクロスを敷いた卓上にスーパーで売っているカボチャを1つ置いて作品をつくりました。それが写真の上に版を重ねた作品の第1作目でした。
こんなような事が何層にも重なり合いながら作品になっていて、現在でもどんどん重ねていっていると言った印象です。でも一向に「カンヴァスに一筆入れてみる」と言う事には近づいていっていないようにも思えます。
今回は長くなってしまいました。
山田純嗣
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」007
[ 2012年11月30日 ]
山田純嗣 様
世代や時代背景と作品との関係を安易に結びつけすぎて思考停止にならないようにしなければならない。おっしゃるとおりですね。ただ、これは作家にとっての制作だけにかぎらず、批評家にとっての評論も同様で、それらと無関係に生きることはきわめて難しい。本人が望むと望まざるとにかかわらず、人はある時間と空間の中で生きていて、それが作家であれば作品の中に、あるいは制作態度として大なり小なり滲み出るのでしょう。
山田さんの1995年前後のお話、要点と思えるところをいくつか整理しておきたいと思います。過酷な倍率の美大受験で石膏像の木炭デッサンと人物モデルの油彩を経過しながら、大学の授業では裸婦を描いてばかりだったこと。一方で、対照的に、上級生から「これがアートだ!」と国内外のコンテンポラリーの作家を紹介される。「先行世代やイケてるとされる先輩」が発表する大掛かりな作品と学内での裸婦とのギャップはつまり、当時最先端の「アート」とされていたものと、古典的な「絵画」とのギャップでしょうか。そしてそのモヤモヤの中での、奈良美智をはじめとする具象絵画の作家への注目。しかし山田さんが初めて版画に取り組んだ1995年には、まだそのような土壌にはなっておらず、山田さんはメタ的に絵画を考えることを、版を通して行なうようになっていく。山田さんとは数世代上になる1941年生まれのジグマー・ポルケや、1932年生まれのゲルハルト・リヒターたちの仕事に対するシンパシーも興味深いです。
そして、まさかここで山田さんの口から李禹煥が登場するとは!というのが前回のメールでの一番の驚きでした。写真に描写を重ねる作品をはじめた際、その倣いの対象としてもの派的な「出会い」があったとは思いもよらなかったのです。しかし、お話を聞いてよくよく考えてみれば、山田さんの口からもの派が出てくるのも、それほど不思議なことではない。もの派にとって「出会い」は最も重要なキーワードであり、その作品は自然物と産業用品を出会わせるというものでした。それは「作らない」ことを積極的に作品に取り入れ、既にあるもの同士を組み合わせるということであって、そのような、美術が描くことをはじめとして「作ること」それ自体を解体していく過程が日本の60年代から70年代にかけてあった。そこでは、「作らない」ことを通して「作る」ということはなにか、が問われていた。すなわちメタ的であったということですから、山田さんの活動初期からの関心として絵画それ自体を考えるということがあったことを考えれば、むしろ筋道としてはとてもよく理解できます。現在のシリーズ〈絵画をめぐって〉のように、絵画を通して絵画を考えるというのとは違うわけですけれど、そこには「絵画を考える」という意味での、非常に一貫したものがある。
もちろんここでわかったふりをしてはいけないのですけれど、その「出会い」に倣おうとしたとき、山田さんが「置いた」のが、もの派的な自然物や産業用品ではなくして、「白いテーブルクロスを敷いた卓上にスーパーで売っているカボチャ」であったのはなるほど、時代ですね。音楽もそうでしたし、あるいは写真の分野ではより顕著に「日常」や「等身大」が求められ、表現されていたように思います。たとえば既にベテランでしたが荒木経惟の再評価が進むのが1990年前後であり、1990年代後半にはHIROMIXや佐内正史といった新世代の写真家が台頭していく。あるいは、1995年に始まったアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(テレビ東京)の主人公碇シンジは、まったく主人公然としないひ弱な男の子で、当時彼と同い年だった十四歳の僕はそこにリアルを見たものです。それらに共通するのはすべからく「日常」であって、その「日常」には「等身大」の「生」と「死」がありました。
「思い出話」以上に、じっくり考えてみたい材料を沢山いただきましたが、ここを掘り進めていくと話が山田さんの作品から外れていってしまう可能性もあるので、戻す必要がありますね。第4信で山田さんは、ペインティングを試みることができずにいるけれども、悲観的になっているかどうかはわからないと書かれています。今回も、一向にカンヴァスに一筆入れてみるということには近づいていっていないようにも思えると書かれている。今回の個展で山田さんはヒエロニムス・ボスの《悦楽の園》を3年がかりで完成されて、あの作品はとても大変な仕事だったと思うのですけれど、それを完成させたということからの今後の展開というものを、「カンヴァスに一筆入れてみる」ではないですけれど、ペインティングを試みることができずにいるということとも合わせて、どのように考えておられるのでしょうか?
個展の終了まで日が近づいてきましたので、今回発表された作品の話、今後の展開について、もうしばらく話をしていければと思います。
小金沢智
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」008
[ 2012年12月7日 ]
小金沢智様
返信が遅くなりました。そろそろ今回の展覧会の事や自分の作品についてもう少し近づいて話していかなければなりませんね。近づこうとすれば離れてってしまう、離れざるを得ないというのは、作品に限らずどうやら僕の習性のようですね。
さて、今回を含めた「絵画をめぐって」とタイトルをつけた展覧会で発表する作品は、多くが過去の名画にモチーフを得て制作したものですが、それらの作品に限らず僕は常に絵画をめぐって制作しています。そういった考えは、そもそも絵の訓練を始めたごく初期の石膏像や人物モデルという目の前の現実のものを絵画という平面に写す事をしていたときから始まっていました。目の前のものをそっくりに平面上に描くって何?目の前のものは平面ではないじゃないかと。しかしそんな事を考えていては描けなくなってしまうので、とりあえずそこは考えない事にして描きました。でも次第に観察描写の作品の中でいい絵だと言われたり、自分でも好きだと思う作品は、そのままを写したものではないという事に気がつき始め、あれ?と思うようになったのです。例えば石膏像で言えば像と背景のキワの部分が強調されていたり、空気遠近法的にとけ込んでいたり、目の前のものをそのまま写すのとは違うものでした。そこで働く気持ちとして、目の前のものを観察しつつも無意識のうちに「絵にしよう」と思うようになっていました。そこからは意識的に「絵にする」事を繰り返すようになっていきました。
僕の高校生のときのデッサンを例にすれば、1.のブルータスの石膏デッサンはわりと素直に目の前のものを写そうとしています。それが「絵にする」事を意識し出してからは2.のデッサンの様に立体の稜線にあたる部分やキワをわざと強調したり、背景の汚れを描いたりして、演出した絵になっていきました。今見ると1.の方でも絵になっているし、2.の方は必死でいやらしいなあという感じがするのですが…。とにかく、こういった操作やノイズが現実と絵を区別するものだ、これこそ絵のエッセンスなのでは、と思うようになっていました。その疑問はその後もずっと続いていて、結局その事が絵画をめぐって考えていくときの1つの重要な要素となりました。
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1. 《石膏デッサン「ブルータス」》 |
2. 《石膏デッサン「ミケランジェロ」》 |
1992年 木炭紙に木炭 |
1993年 木炭紙に木炭、鉛筆 |
その後、現実と絵の関係を考えて作品をつくっていく中で、絵のエッセンスだけを抽出したような事はできないかという考えもあり、2.のデッサンで強調した部分のように、写真に絵のエッセンスの部分だけ描き込んだ作品をつくろうとしたのです。それが前回書いた、テーブルクロスの上のカボチャの作品3.《on the table #1》でした。この作品は、写真の上に全面に横線を入れたり、カボチャのあたりに汚しを入れたり、ただそれだけの作品です。現実の部分は写真で、絵のエッセンスはエッチングで、という風に分けてつくって重ねたのです。最近の作品では、その汚し、エッセンスにあたる部分を具体的な描き込みにする事で、より見る人がそこに目を向けてもらえるようにしています。ちなみに今回出品しているゴヤの《砂に埋もれる犬》をモチーフにした4.《The Dog》と言う作品は、《on the table #1》と構図的に既視感があるという事でつくった作品でもあります。ゴヤのこの作品もほとんどが空にあたる余白で、その薄汚れたような余白があるからこそいい作品になっているように思います。
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3. 《on the table #1》 1997年 |
4. 《(12-8) THE DOG》 |
先日、自分の個展会場に向かう前に、六本木でやっていた草間彌生展に寄ってきました。出品されていた草間彌生の新作ペインティングは、近くで見ると線や点はおぼつかなくヨレヨレしていました。でも僕はそのヨレヨレにとても感動してしまいました。晩年のマチスの切り絵の作品を見たときと同じ感動がありました。マチスの切り絵の作品もとても洗練されているように見えるのですが、実物を近くで見るとベタベタと切り貼りしていてとてもおぼつかない表情をしているのです。こういった部分に触れたとき、作品と現実とがぶつかり合う切り口を見たようで身震いがします。そして、本物が見られてよかったなあとしみじみ思うのです。おぼつかなさが作品にリアリティを持たせるというのは、晩年のマチスや草間だけに言える事ではなく、先の石膏デッサンにも言える事だし、作品全般に言える事だというのが僕の仮説です。例えばジャスパー・ジョーンズの国旗の作品などはいい例と言えるのではないでしょうか。抽象表現主義が絵画の中で絵画の完結を目指したが、どうしても絵画の外、何もない部分に広がりを感じさせてしまったり、画面中央でのびのびとしていたストロークが画面の四隅では窮屈さを感じさせてしまう問題をジョーンズは国旗などの記号を使う事で解決しました。しかし、ジョーンズはその記号を作品化するにあたって、国旗をそのまま提示するのではなく、筆致を残した絵肌など、味を加える事で作品化していました。
話がどんどん遠くに離れていってしまうのですが、自分の中ではそんなに離れていっているつもりはなく、近づこうと思っているので、もう少しおつき合いください。僕の初期の作品(5、6)では、モチーフを均等に並べる事によって、現実を平面化しようとしていました。抽象表現主義の作品のようにオールオーバーな画面を目指していました。それに対して名画を引用した作品のシリーズは、ジャスパー・ジョーンズの国旗の作品のような存在だと思っています。つまり、すでに記号化された作品を用いる事で、画面の外に画像の続きを想像したり、端が窮屈になったりする事がなく、作品の中のみで完結した画面をつくる事ができるという事です。
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5. 《on the table #100》 1999年 |
6. 《on the table #201》 2005年 |
では僕の作品の次の段階はどうなるかという事ですが、美術史にならえば、ステラなどミニマルアートに繋がっていくことになっていくのですが、僕が主に考えている事は「絵画になる」とは、という事なので、ミニマルな方向には進まないと思っています。今回《快楽の園》をつくってみて、ボッシュの作品をなぜ選んだかかも含めて、あらためて感じた事でもあるのですが、自分の作品の制作工程における因果関係に対する態度の大切さです。因果関係とは、例えば誰々が殺人を犯したのは幼少期に虐待を受けていたからだなどのように、まず結果があって逆算的にその原因を特定するように進むものです。しかし現実は原因というのは確実なものではなく、必ずしも幼少期に虐待を受ければ殺人を犯すわけではないのです。僕の作品は版画制作などある工程をふまなければ作品が完成しないのですが、逆に言えば工程をふめばたちまち作品が完成するという技法を使っているので、あらかじめある程度の完成予想図がないと制作できません。しかし、完成予想図に向かってひたすら進むだけでは作品が完成に拘束されてしまって痩せてしまう。そのような因果関係に縛られないように、僕は制作に不確定な要素をその工程ごとに盛り込むようにしています。立体制作で言えば石膏をとろけるようにかぶせる工程、アナログ写真の現像、エッチングの腐蝕などがそれにあたります。それは先ほどの石膏デッサンにおけるエッセンスの話の様なものだと思っています。《快楽の園》に話を戻せば、《快楽の園》に描かれている世界は全体としては宗教的な意味合いを持ったものです。しかし、細部に目を凝らせば、その全体観とは離れて生き生きとしています。結果に向かって一方向に進むというような因果関係の拘束から完全に解放されています。実際僕が今回《快楽の園》に描かれているものを一つ一つ立体としてつくっていくときにもその事は実感する事ができました。細部は細部として全体のための細部ではなくそれ自体が生き生きとしているのです。
自分の作品の展開についてですが、ボッシュの《快楽の園》のおかげで、作品における因果関係のことが明らかになりつつあります。今後はこういうイメージのものに仕上げようとか決めずに、漠然とたくさんの細部を持つ作品や、何かに付随する衛星のような、あるいは散文のような作品群をつくっていけたらと思っています。その過程で「カンヴァスに一筆」もあり得るかもしれませんね。
山田純嗣
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」009
[ 2012年12月31日 ]
山田純嗣 様
すっかりお返事が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。大晦日をいかがお過ごしでしょうか?
不忍画廊での個展は12月8日(土)で終了。残念ながら二度しか会場に伺うことができず、例によって山田さんとは今回もお会いすることが叶いませんでしたが、ボスの《快楽の園》以上に、とりわけ気になった作品が雪舟の《慧可断臂図》に基づく作品でした。雪舟の大胆な筆致、特にあの衣紋線をどのように立体化されたのか。ボスやミレー、ゴヤといった西洋絵画とは異なる日本の、しかも近代以前の遠近法もあったものではない絵画の図像。ボスに象徴的な、細かな細部が作り出す作品とは対照的ですし、それらの周囲にあしらわれた草花のエッチングが、達磨への弟子入りを求めて自分の腕を切り落としてしまった慧可というエキセントリックな場面と組み合わされて、実に奇妙な空間を作り出していると感じました。今回の個展の、ボスと対をなすハイライトではないでしょうか。ボス《快楽の園》と雪舟《慧可断臂図》を軸にして、個展の全体を考えてみたいと思っています。
また、その後山田さんが参加された文房堂ギャラリーでの「阿波紙と版画表現展2012―AIJP(アワガミ インクジェットペーパー)とミクストメディア―」(2012年12月17日〜22日)も拝見することができました。素材の差異による受ける印象の違いなど、言うまでもないことではあるのですが、きわめて近い時期に同様の図像の異なる素材による作品を見ることができたこと、よいタイミングに感謝したいと思います。
そのとき思い出したテキストがあるのでご紹介させて下さい。僕は記憶力がよくありませんので、たとえば本を読んでもその細かなフレーズなどはもちろん、全体すら、時間が経つにつれすっかり忘れてしまうことがままあります。にもかかわらず、小説家の村上龍(1952-)と村上春樹(1949-)の対談をまとめた『ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹』(講談社、1981年)のあとがきにある村上龍の言葉は、初めて読んで以来頭のすみにずっと住み着いています。他の部分はまるで覚えていないので不思議なことなのですが、偶然にもこちらも往復書簡ですから、ご紹介するにはちょうどよいかもしれません。さて、それは、「僕らが演奏家だったら、あのいかした曲を、ギターとベースで一緒にやれるのになぁ、そう考える。小説家は、同じ曲を演奏することはできない」というものです。僕の知るかぎり、小説は音楽のように、一つの作品を複数人で作り上げる(書き上げる)ということがなしえません。共作はあっても、その執筆は音楽のセッションのように同時に行われるわけではないからです。その交通不能な一抹の寂しさのようなものが、僕にこのテキストを覚えさせている原因なのかもしれませんが、一方で「小説家は同じ曲を演奏することができない」というところだけ抜き出して、作品の存在の仕方のありようを考えることもできそうです。多くの小説家は一度発表した作品を、たとえば加筆修正を繰り返しながら複数回発表するということを行いません。いくら広く知られた小説だとしても、単行本と文庫本での版型や装釘の違いといった少々のアレンジの差異はあったとしても、その内容(原曲)が変わることは原則的にないでしょう。
では今回の山田さんの作品は? というところに、強引に話を繋げていきたいと思います。山田さんが今回「阿波紙と版画表現展2012」で発表された作品は、意味合いとして、それ以前に発表された雪舟や高橋由一の言わば「同じ曲」の「アレンジ」であるのか、あるいは違うのか。というのは、インタリオ・オン・フォトという山田さんの手法による作品と、インクジェットプリントによる作品を比較すると、同じ図像に基づいていても、その見え方が随分違う。当たり前なのですけれども、それによって山田さんが重視されている、全体のためではない、それ自体が生き生きとしている細部も、立ち上がり方が異なってきますよね。山田さんの第8信は主に作品を「絵にすること」ないしは作品が「絵になるということ」であると思いますが、その過程の中で作品における不確定要素や因果関係、細部についておっしゃっている。他方で、版画の素材の違いによる作品の見え方の違いは、どのように捉えられているのでしょうか? 「阿波紙と版画表現展2012」での作品は、アワガミファクトリーからの依頼があってのことなのだと思われますが、これから自発的に、今後の展開を考えられるにあたって、そのようにさまざまな素材を使用していくことも考えていらっしゃいますか?
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(12-15) 慧可断臂 |
(12-16) THE LADY AND THE UNICORN – SIGHT |
2012年 60×36.7cm
阿波紙(和紙)、インクジェットプリント、エッチング ed.5 |
2012年 60×45cm
阿波紙(和紙)、インクジェットプリント、エッチング ed.5 |
途中、「明けましておめでとうございます」を最後に書かなければならないかと思いましたが、なんとかお返事を年内に終えることができました。
それでは、どうかよいお年をお迎えください。
小金沢智
「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」010
[ 2013年1月22日 ]
小金沢智様
不忍画廊での個展も終わり、こちらもすっかりペースが落ちてしまいました。申し訳ありません。もうそろそろ回数と時間を重ねてきたので、筆の置き所を見つけなくてはいけないとも思うのですが、絵画をめぐってということに焦点を絞りつつ進めなければなりませんね。
さて、前回の小金沢さんからの第9信では、《慧可断臂図》についてと、同様の図像の異なる素材の作品をご覧になったことをきっかけとして、小説には音楽のように一つの作品を複数人で作り上げることができない交通不能性があるということを思い出されたとのことでした。そして小説家は加筆修正を繰り返しながら複数回発表することがなく、小説は単行本、文庫本などの多少のアレンジはあってもその内容が変わることが原則的にない。それに対して僕の同様の図像の素材の異なる作品は、同じ作品なのか、アレンジなのかとおっしゃっていたと思います。まず、音楽と小説、そして絵画との関係について触れておきたいのですが、音楽にまつわる部分を読んでいて学生の頃などに運動部や軽音部の同級生のことがちょっと羨ましかったことを思い出しました。彼らはなんといってもやっている姿がかっこよくていつも注目の的だったのだけど、かたや僕ら美術をやっている男子はどれだけがんばっても作っている姿を教室の外からキャーキャー言われるなんてことは無いよなと思っていたものでした。今になって思えば、これは作品において「枠」の有無に由来する、想いを傾ける対象の違いから来るとも言えると思うのです。音楽や運動というのは、それ自体に目に見える形は無く空間に拡散されてしまっているので、視覚的には音楽を演奏したり運動をしている姿しか見る事ができないのです。だからそれを受け取る人は身体では運動や音楽を感じつつも、目では「人」を追っている。第一段階は「人」に向かわざるを得ないのではないでしょうか。だから運動部や軽音部がモテるのも仕方がないかなと思うことにしています(笑)。それに対して小説や絵画というのはどうかといえば、それぞれは本やキャンバスといった閉じた枠の中に収まっていて、表面的には対象を視覚的に認識することができます。だから受け取る人の第一段階は「作品」に向けられます。そして小説や絵画の入り口としての枠は閉じているので、能動的に読む、見るということをしなければ枠の中に入って認識することはできません。また、音楽のセッションのようにはできないというのは、音楽が演奏すると同時に聴かれるものであるのに対し、小説や絵画は制作と同時に鑑賞されるものではなく、事後的なものだからだと思うのです。そして作者といえども完成した作品とは物質的に交わることができないので、ただひたすら枠の外側から作品に目を向けて眺めるしか術が無いのです。
あと、小説家は一度発表した作品を、加筆修正を繰り返しながら複数回発表しないということについてですが、これは小説とはどういうものかと考えなければ分からないのではないかと思います。先ほど小説は枠に閉じていると述べたのですが、閉じている先で開かれているというか、読むということさえ受け入れれば、その時間の中に広がり、運動を感じることができるものなのではないかと思います。本に書かれた文字が作品なのではなく、それを通して受け手の中に生じるものが作品で、文字があればいくらでも形式的には同じものが再現可能です。また、言葉は抽象的なものなので、それを通して受け取り手の中に生じる印象は誤差があって、同じ「美人」という言葉でも思い浮かべる姿はみんな違ったり、時間をおいて読み直すと印象が変わったりもします。だから完成してしまった時点で書き手の元を離れてしまっているのではないでしょうか。だから小説家は、複数回発表しないのではなく、発表する必要がないということなのかもしれないと小説家ではない自分なりには考えます。ほかの例で言えば、落語の演目のように、発表するたびに枕が変わったり、何度聞いても面白いものなのだけど、本題の作品自体は代々受け継がれて変わりがないようなことにも似ています。そう考えると抽象という点で音楽とも共通する部分は多いように感じますが、言葉とはそういう側面を持っているのでしょう。それに対して絵画はどうかと言えば、その物質の方にも価値が生じるという側面があるので、本質は変わらなくてもアレンジをしたらそれはそれで物質的な固有の価値(アレンジのさじ加減によって差はありますが)を持つわけです。小金沢さんのご指摘の今回の阿波紙の作品についても、そういう点で一つのバリエーションと考えていただいてかまいません。こういった運動、音楽、言葉における現実(=眼前で起きていること)と理念との関係のことは、絵画における物質と像の関係と近しく考えることができるかもしれませんが、長くなりそうなのでここまでにしておきます。
そしてもう一つの話題、今回の展示の中で雪舟の《慧可断臂図》をもとにした作品(《(12-5) 慧可断臂》)が気になったとのことですが、小金沢さんに限らず多くの方から反応をいただきました。あの作品に対して気にかかる部分はいくつかあると思います。その中でも小金沢さんもおっしゃるように、達磨の表現についてと、遠近法など西洋絵画との比較については大きな部分を占めるのではないでしょうか。まず達磨の表現についてですが、実物の雪舟の《慧可断臂図》において、画面の周囲をぐるりと囲む岩肌の荒々しい筆致による密度のある表現に対して、画面の中心にある達磨は淡く太い線によって輪郭されるのみで、衣服の中は白く余白として抜かれている。岩の密度のある表現と衣紋の線の表現は、先行する牧谿の《観音遠鶴図》(13世紀、大徳寺蔵)の観音図にもあるような表現ですが、雪舟はそれをPCソフトのフォトショップを利用してコントラストをすごく強くしたような感じとでもいいましょうか、とてもはっきりとした強烈な印象にしています。水墨では白という色は描かれていない部分、つまり紙の地の色にあたります。雪舟のこの作品の場合の面白さの一つは、画面の主役たる中心部分が空洞で、周囲の表現とのギャップをつくっていることにあると思います。ここで地と図の関係というよく言われる言葉を利用しますと、物質的には地の部分が画面の中心になっています。しかし、ここで地と図の関係は逆転しているのかというと、単純ではないと思います。物質的には紙の色のままなので地と言えるのかもしれませんが、ある形に輪郭されている時点でそれは図になっています。輪郭が描かれなくても、霞の表現など水墨などでは描かれていない余白が風景、空間を表しているというのはよくあります。つまり観者の側が何かを見ようとしている時点でそれはすべて図なので、絵画には地と図の併置ということはなく、一筆描かれた時点で視覚的には図しかないのではないかと思います。物質的には描かれていない地の部分でも、観者の中では図、絵画が生まれている。このことは絵画について考える上でとても重要なことの一つだと思います。
僕の作品の場合は、地にあたる部分は全面ストレートなプリントをした写真なので、何もないように見える部分であっても対象がない部分はなく何かが写っていることになります。重ねるエッチングに関しては、均質なマチエールの線描が中心ですが、線描なので隙間だらけで隙間から下に重なっている写真の陰影が感じられるという仕組みになっています。絵画にとって絵の具や素材のマチエールとは、先ほどの話の絵画の物質に関わる部分であり、つまり絵画の血肉にあたるものとも言えるでしょう。エッチングの線は物質的なマチエールを持っているのに対して、その下地にある写真は表面が滑らかで凹凸がありません。しかし視覚的には陰影によって凹凸が感じられます。今回の《(12-5) 慧可断臂》ですが、達磨の部分にエッチングは重なっていなくて平滑です。つまり雪舟の《慧可断臂図》と同様にそこはマチエール的には空洞になっています。しかし観者の側で図を補完しようとするマチエールの空洞部分には、写真の図像が前面に現れていて先取りされてしまっているので、観者の視点はマチエールと写真の図像の間で落ち着きどころを失い宙吊りになってしまうのではないかと思います。このことは、小金沢さんが第1信で、平面と立体のインスタレーションを行き来して見ているうちに「どちらも存在が不確かであるように見えてきて、引き裂かれているような思いを感じて立ち尽くしてしまいます」と指摘していただいている点と共通するのではないでしょうか。僕は絵画にとってこの宙吊り状態というときにこそその本質に近づけるのではないかと思っていて、絵画はあらかじめこちらで結論を設定できるものではなく、あらかじめ用意しない不意の宙吊り状態でこそ体感できるものなのではないかと思っています。
《慧可断臂図》におけるもう一つの特徴の西洋の遠近法との比較や対象の認識などについても書きたいことはあるのですが、ここまでですっかり長くなってしまったのと、少し絵画の本質に触れるような話もできたので、あとは蛇足だろうということで今回はここで止めておきます。
あと、お答えするのを忘れていましたが、第9信での最後のご質問、今後の展開で様々な素材を使用していくことも考えているか、についてですが、先日名古屋市美術館でやった『ポジション2012』に出品したミラーフィルムの作品や今回のインクジェットの作品、ドローイングなど少しずつ試してはいます。現時点でこういう素材を使おうという案はありませんが、絵画については一つの方向からではなく、多角的な表現をしていくことで交差点が生まれ、仮説としての焦点が見えてくるのではないかと思うので、今後も試していきたいと思っています。
最後に第1信のときの小金沢さんの〈わからなさ〉ということについて、ここまででそれに変化が出てきているかといったことなどお聞かせいただきまとめてもらえればと委ねて終わりたいと思います。
山田純嗣