日本近代美術の重要作家のコレクションです。
木村荘八、鳥海青児 他
木村 荘八|Shohachi Kimura(1893 – 1958)
1893年 東京生まれ。1911年 白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差す。1915年 岸田劉生らと草土社を結成、以降第9回展まで毎回出品する。1918年 第5回院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞を受賞。1922年 春陽会創立に参加、24年に同正会員となる。1958年 東大病院にて逝去。没後刊行の『東京繁昌記』で日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞。
1958年作
油彩
31.8×41cm (F6号)
「木村初枝」鑑定シール有
久野 和洋|Kazuhiro Kuno(1938 – 2022)
1938年、愛知県名古屋市生まれ。1965年、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)本科美術科卒業。1991年に文化庁芸術家在外研修員としてイタリア・フィレンツェに滞在。同年「両洋の眼展」に出品し推奨受賞、以後毎回出品し、1999年に《地の風景・坂の道》で河北倫明賞を受賞。武蔵野美術大学で長く教鞭をとる。2008年に代表作による退任記念展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を開催。
キャンバスに油彩
53×41cm(P10号)
鳥海 青児|Seiji Chokai(1902 – 1972)
茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。
1902年 神奈川県中郡須馬村生まれ。1924年 第2回春陽会展に応募した『洋女を配する図』、『平塚風景』が初入選。以後1930年(昭和5年)まで連続入選を果たす。1933年 春陽会会員となり1943年に退会するまで同会を主な作品発表の場とする。退会後は独立美術協会会員となり、以後最晩年まで同会に作品を発表し続ける。1963年には中川一政を団長とする画家代表団の一員として中国を訪問する。
キャンバスに油彩
23.7×19.2 cm
「東京美術倶楽部鑑定委員会」鑑定証書付
長谷川 利行|Toshiyuki Hasegawa(1891 – 1940)
1891年 京都山科生まれ。1925年 上京し、二科会展に《田端変電所》が初入選。1927年 二科会展で《麦酒屋》などが樗牛賞。1928年 一九三〇年協会展で《地下鉄道》などが協会賞。1929年 一九三〇年協会展で《靉光の肖像》など出品。1933年頃より放浪生活が始まる。1936年~38年 新宿・天城画廊で個展開催。1940年 死去。享年49歳。
「利行の絵と木村東介」荒井一章 (2004年11月 長谷川利行展「描かれた詩」より)
義父の木村東介(1901-1992)は人生を賭けて長谷川利行の絵画に取り組んだ画商である。
天城画廊・天城俊彦から手渡された数百点の長谷川作品を戦火を避けて東北・山形に疎開させた。今日風に云えばホームレスの画家である長谷川利行の絵を珠玉の如くに思い入れ、日本のゴッホといわせるまでに仕立て上げたのである。これはただならぬ出来事なのだ。しかも半世紀以上をかけての大戦略だった。今日では、美術愛好者で知らぬ人はない。絵好きの人の心をぐいっと掴んで放さぬような魅力を持つ絵―それが利行なのだ。美術学校で教わるような絵画理論なんかくそくらえの絵だ。しかし激しい熱情で迫る絵なのだ。これはどうしようもない。
木村東介は常々こう云っていた。
「いい絵かそうでないか見わける方法はひとつ、利行の絵と比べてみるがいい」と。
これは大変きついことなのだ。大方の絵は白旗をあげてしまう。
15年位前のことだ。関西からの帰途、新幹線の隣席に京都から、向井潤吉先生(1901-1995)と乗り合わせたことがあった。向井画伯と云えば、藁ぶき農家の油絵で有名な画家である。木村東介とは以前より知り合いであった。「君の親父の木村さんは何でも長谷川利行が一番と云われるが、わたしはな、絵というものはもっとはんなりしたものだと思うとるんだ・・・」と云われた。はんなりした絵というものがどういうものか、わかった様でわからない気もするひとことだった。もうひとつ、木村東介の言葉で「パリで長谷川利行展を開き、ユトリロの絵と比べてみたいものだ」と本気で云っていたものだ。
「水泳場」
1932年作
油彩
90.9×116.7 cm
- 「二科展」出品
- 「時代と美術の多面体」(2007神奈川県立近代美術館 葉山)
- 「池袋モンパルナス展 ようこそ、アトリエ村へ!」(2011板橋区立美術館))
- 「長谷川利行展」(2018年巡回展|福島県立美術館、府中市美術館、碧南市藤井達吉現代美術館、久留米市美術館、足利市立美術館)
- ※ブログ「長谷川利行展に寄せて|荒井一章」