斎藤 真一|Saito Shinichi

斎藤 真一|Saito Shinichi(1922 – 1994)

1922年、岡山県児島郡味野町(現倉敷市)生まれ。東京美術学校卒。1959年に渡仏し藤田嗣治と親交、瞽女を描くきっかけとなる助言を受ける。
『瞽女=盲目の旅芸人』で第21回エッセイストクラブ賞、『越後瞽女日記』でADC賞を受賞、映画『吉原炎上』(原作:斎藤真一/監督:五社英雄)上映。1993年、山形県天童市に〈斎藤真一心の美術館〉開館。逝去後、秋田、宮城、東京、新潟、富山、福井、岡山の美術館などで斎藤真一展開催。

略歴 | Biography in preparation

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1922岡山県児島郡味野町(現倉敷市)に生れる
1948東京美術学校(師範科)を卒業。静岡市立第一中学校就任
第4回日展に「鶏小屋」が初入選する
1949岡山県味野中学校に転任。萩野悦子と結婚。味野中学校を退職し、神奈川県鵠沼に住む
1951長男・裕重生れる
1953静岡県立伊東高等学校に着任
1955夏期休暇中、生徒を連れて伊豆の東海岸、西海岸、天城を歩き、写生旅行をする
以後、伊東高校在職中の18年間、毎年続ける
1957光風会第43回展「立春の道」プールヴ賞を受賞する
1958船で横浜からマルセイユへ行き渡仏する。40日間かけてイタリアまで原動機付自転車で旅行する
1959滞欧中、藤田嗣治と出会い親交を結ぶ
1960帰国時、藤田嗣治と再会、「日本に帰ったら秋田や東北がいいから一生懸命に描きなさい」と励まされる
文藝春秋画廊(東京)にて帰国後初個展
1961夏、津軽へ行き、ねぶた祭に感動する。津軽三味線の音色に驚き、宿の古老から瞽女のことを教えられる
1962瞽女に惹かれ、盲目の女性を描く
1964杉本キクエ瞽女を初めて訪ねる
翌‘65より約10年間、休暇のほとんどをさいて瞽女を取材するため越後に通う文藝春秋画廊(東京)にて「斎藤真一展」
1970羽黒洞(東京)主催で文藝春秋画廊にて「越後瞽女日記展」を主催
1971「星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)」で第14回安井賞佳作賞を受賞する
18年間勤めた伊東高校を退職する
1972『越後瞽女日記』(河原書房新社)、『瞽女=盲目の旅芸人』(日本放送協会)を刊行三越本店にて「越後瞽女日記展」
1973『瞽女=盲目の旅芸人』で第21回エッセイストクラブ賞を、『越後瞽女日記』でADC賞(美術出版社)を受賞する
映画『津軽じょんがら』のための挿入絵を制作し、考証にあたる
劇団文化座による「越後瞽女日記」を考証する
1974羽黒洞主催で上野松坂屋(東京)にて「津軽じょんがら―瞽女日記展」
『津軽じょんがら―瞽女日記』(大西書店)を刊行
劇団手織「はなれ瞽女おりん」公演
1975羽黒洞主催で上野松坂屋にて「お春瞽女物語り展」
私家版『お春瞽女物語りノート』(制作=大西祥司)を刊行
1976イタリアのシチリア、ウンブリア、トスカーナを1ヶ月間旅行
丸久松坂屋にて「越後瞽女日記展 斎藤真一」
1977『瞽女斎藤真一画集』(毎日新聞社)を刊行。カルド・マディニオン画廊(パリ)にて個展を開催
スイス、バーゼルのクンストメッセ出品、3ヶ月滞欧。(以後79年まで毎年出品)
和田芳恵著『道祖神幕』(大西書店)の挿画、装丁を手がける
1978『絵日記瞽女を訪ねて』(日本放送出版協会)を刊行
ドイツのアキシオム画廊(ゲルン)主催で個展のため渡欧する
『斎藤真一放浪記』(美術出版社)から刊行
『いないいないの国』(文:神沢利子/画:斎藤真一 童心社)を刊行
1979池袋西武百貨店(東京)にて「さすらい・斎藤真一展」
『斎藤真一作品集 1941~1979』(不忍画廊)を刊行
スペインのラマンチャ、アンダルシアを旅行する
1980『さすらい―斎藤真一画集』(講談社)を刊行
イタリア、スイスを旅行する
不忍画廊にて「斎藤真一・さすらい画集原画展」
天満屋岡山店にて「斎藤真一展」
1981カナダのヴィクトリア美術館(モントリオール)に作品が収蔵される
1982毎日新聞社主催で阪急ナビオ美術館(大阪)ほかにて「斎藤真一の世界展」
スペイン、アンダルシア、トスカーナ、カタロニア、ランマシャ を旅行する
不忍画廊にて「画廊コレクションによる斎藤真一展」
船橋・西武美術館にて「魂の光炎を求めて30年 斎藤真一展」
1983『一寸昔』、『風雨雪』(青英社)を刊行
ミニアチュール銅版画集『走馬灯』(美術出版社)を刊行
1985『ぶっちんごまの女(母の記)』(角川書店)を刊行
『紙草紙 吉原炎上』(文藝春秋)を刊行
『明治吉原細見記』(河出書房新社)を刊行
毎日新聞紙社・西武美術館主催で西武アートフォーラム(東京)にて「斎藤真一・明治吉原細見記展」
1986天満屋岡山店にて「明治吉原細見記展」
ポルトガルを旅行する
不忍画廊にて「浪漫の女たち〈水墨淡彩掛軸シリーズ〉展」
1987『斎藤真一放浪記』(美術出版社)を刊行
日本橋高島屋にて「明治の吉原とその女たち―斎藤真一展」
『明治吉原細見記』と『吉原炎上』が五社英雄監督によって映画「吉原炎上」(東映株式会社)として上映される
1989毎日新聞社主催で阪急ナビオ美術館(大阪)にて「大正ロマンと昭和ロマン 竹久夢二と斎藤真一展」
『哀歌 斎藤真一淡彩画集』(美術出版社)を刊行
1990岡山県立美術館にて第7回洋画常設特別陳列「斎藤真一展」
月刊誌『マリ・クレール』に3月号から翌年2月号まで連載された小川洋子「シュガータイム」の挿絵を描く
1991『昭和の美術』(第6巻)(毎日新聞社)に「現代の孤独」(世田谷美術館蔵)が選ばれる
倉敷市立美術館にて「第4回郷土作家展 斎藤真一」
1992ポルトガルを旅行する
不忍画廊にて「哀愁の街角ポルトガルにて斎藤真一新作小品展」
1993フランス、ポルトガルを旅行する
山形県天童市に出羽桜美術館分館 斎藤真一心の美術館を開館する
同美術館にて「風にうたれ雨にぬれて…斎藤真一展」
19949月18日 逝去、72歳
荒井一章: 斎藤真一と木村東介のこと(不忍画廊会長と斎藤真一の出会いについて)

私が斎藤真一の絵と出会ったのは1964年、青木画廊の主催する銀座の文藝春秋画廊の個展であった。私は新聞社のサラリーマンをやめて画商の道に迷い込んでいた。そんな時出会ったのが斎藤真一の絵であった。日本的外国風景とでも云おうか、火の見櫓と山高帽の紳士が同居している。火の見櫓には梯子に登り赤い裾をひるがえし、髪に赤玉のかんざしをさした八百屋お七が半鐘を叩いている。そして私はこの絵を求めたのである。画商になって最初に買った絵がこれだ。

一週間もたった頃、上野・池の端の不忍画廊にオートバイに乗った斎藤真一さんが現われた。伊東の高校で美術の教師をされているという。文学青年の絵かきであった斎藤さんは、東京芸大の師範科を出て郷里の岡山で中学の美術教師をしていたが、好きだった川端康成の小説「伊豆の踊子」にひかれて伊東の高校に移ってきた。当時は日展・光風会に出品、光風会賞も受賞している。普通のアカデミックな傾向の油絵だった。それが変わった。1959年、37歳の時、一年間休暇をとってヨーロッパへ遊学する。一つの目的は、紹介状を持っての藤田嗣冶をパリのアトリエに訪ねることであった。そしてフジタに会えた。フジタは戦争協力画家のレッテルを貼られ日本を逃れていた。フジタは斎藤真一にこう云った。「自分はもう日本に帰れない。君は日本にいられていいな。しかし昔の日本はもうないよ。東北地方には、古き良き日本がまだ残っている。東北を描きなさい」とアドバイスをされる。これが斎藤さんの絵画人生を変えたのである。

津軽を訪ね三味線の音色を追っていくうち、瞽女唄にたどりつく。滅びゆく盲目の女旅芸人―瞽女の生と死を記録し描くライフワークをみつけたのである。オートバイに乗って週末越後に向かい、瞽女の道をたどり、その足跡を追う。いうなればフィールドワークの画家版とでも云おうか。

不忍画廊へ来たのは、私に個展で自分の絵を買って貰った礼と、越後への取材の旅の費用を捻出するため、毎月絵を買い取って貰えないかとの打診であった。私は提案をうけいれ、少額ではあったがこうして毎月小品4~5点が私のコレクションとなっていった。二階建ての木造の小画廊の二階スペースには斎藤真一の作品だけが並ぶようになっていった。この頃のコレクターに写真家・秋山庄太郎さんがいる。不忍画廊の裏にある旅館で秋山さんや吉行淳之介さんたちが麻雀をかこむ日が時折あり、早目に来て画廊をのぞいては斎藤真一の絵を買って頂いたものだ。

私の手元に斎藤真一作品が60~70点集まった頃、斎藤さんが私の義父・木村東介の手紙をたずさえてやって来た。「実は・・・」とその手紙を差し出し、読むと自分が瞽女の絵を応援するから持ってくる様にという内容であった。いうなれば、羽黒洞木村東介と契約しないかということであった。正直なところ、ストックが多くなってきており、好きな絵であっても自分の力を超えているのが現状であり、斎藤さんには義父の申し出に添うようにすすめた。長谷川利行や肉筆浮世絵を命がけで集め、世に顕賞、普及した気骨の画商の手にゆだねた方が、はるかに世間にアピールされるはず、と私は判断したのである。

そして数年後その通りになっていった。私が斎藤真一の絵と最初に出会ったところも同じ、銀座の文藝春秋画廊で、羽黒洞・木村東介主催による「斎藤真一 越後瞽女日記」展が開催された。黒い壁面に吊るされた真赤な色を基調とする作品のそれぞれにスポットライトを当て、浮き上がってくる独特の真紅。また画廊の外へは津軽三味線の激しい音を流した。道行く人はぞろぞろと画廊に入ってくる。今まで見た経験のない作品群の熱気に当てられてしまった。ここで斎藤真一はたちまち日本画壇の寵児となっていった。そして30年たつ今も多数の愛好家に支持され続けている稀有の画家と云えよう。

(あらい かずあき/不忍画廊会長)

作品 | Works

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《みさおの唄 越後瞽女日記より》

1972 油彩・板 F3号 額付


《北国街道 瞽女 冬の旅より》

1980 油彩・板 F4号 額付


《川添い》

1963 油彩、キャンバス 27.3×16cm(M3号) 額付


《伊豆の家》

1957 紙、墨、水彩 24×27 cm 額付

藤田嗣治に憧れ、藤田が描いたアトリエの作品の影響を色濃く感じる作品。翌年1958年に念願のフランス行きが決まり、滞欧中の1959年に藤田嗣治と出会い親交を結びます。


《陽 〜雪国シリーズより〜》

1980
銅版画
39.5×28cm
ed. 250
額付

《星 〜雪国シリーズより〜》

1980
銅版画
39.5×28cm
ed. 250
額付

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